適切な種類の自信
Original Essay: http://sun.iwu.edu/~wchapman/confidence.html
キャンパスでの最初の日、あなたがどのように感じているかを想像してみました。様々なことが想像されます。あなたと同じ立場にいる人は(ほとんどの人だと願いますが)、これから始まる新しい機会と新鮮な自由に、興奮と希望をを抱いているでしょう。もしかしたら、一部の人は少し心配気味に、ここにうまく適応できるかどうか、あるいは、ちゃんと勉強について行って良い成績を上げられるかどうか、考えているかもしれません。ある人は、すでに少しホームシックになっていて、離れてしまった家族や友人を思い返しているでしょう。または、今日、キャンパスで偶然出くわして思わず気を取られてしまったあの魅力的な人に、また会う機会があるかどうかと考えているかもしれません。ないしは、長旅と入居の一日の後で、少し疲れているかもしれません。小さな町の出身の人であれば、騒音と人混みにちょっと圧倒されるように感じるでしょうし、都市部から来た人であれば、ここは閉ざされていると感じ、自分の行きたいところへ直ぐに電車で行ける環境ではなくなった今、どうしたらいいのか疑問に思っているでしょう。そんなみなさんに伝えたいことは一つだけ,「自信を持って」です。自信さえ持っていれば大丈夫です。しかし、誤った自信ではなく、正しい種類の自信、真の自信を持つようにしてください。
誤った自信とはどういう意味でしょうか。とても簡単に言うと、それは、確かな理由がなくても、あなたは何かが得意であると、信じることです。私たち全員、ある程度これをしています。ギャリソン∙ケイラーのラジオ番組「すべての子供たちが平均を上回っている」から、「レイクウェベゴン効果」という名前が、その一形式として、付けられています。私たちのほとんどは、平均を上回っている、と考える傾向があります。例えばある研究によると、アメリカの大学生の88%が平均的なドライバーよりも運転が上手なドライバーだと思っています。さらに、もっと面白い研究があって、自動車事故が原因で入院し回復している人々を調査すると、彼らさえも、自分たちが平均以上の優良ドライバーだと考えている、と示されました。同様の結果は、平均よりも仲間の人気があると考えている高校生や、平均的なリーダーよりも優れていると考えている企業経営者も同じで、他にも、警察官、株取引アナリストなどにも見られます。大学教授の95%は、平均以上の教授であると考えていますし、私自身も、平均以上かどうかと問われたら、平均に近いと思う、と答えます。
この種の自信は必ずしも悪いことではありません。ステージの上で、スポーツのフィールド上で、試験の最中、または、友達になりたい人との最初の会話の時など、プレッシャーのもとでパフォーマンスを行う必要がある場合、自信は非常に重要です。たとえ偽りの自信でも、無いよりはずっとましです。いざ、何かをしなくてはならない瞬間になったら、たとえ、自分が得意でないことでも、自分ならきっとできると信じましょう。なぜなら、あなたが実際にはかなり上手でも、あなたがそう信じなければ、あなたのパフォーマンスが低下してしまうからです。
しかしながら、誤った自信にはいくつかの欠点があります。 1つ目は、本来の注意力よりも、注意力が大幅に低下することです。自分が平均よりも優れていると考えるドライバーは、運転中、携帯電話でテキストメッセージを送ったり、炭酸ジュースを飲んだりするなど、愚かなリスクを平気で負います。これは、運転技術が平均以上でも、携帯電話でのテキストメッセージ打つ速さが平均以上でも、炭酸ジュースの飲み方が平均以上でも、悪い考え方です。これの教室での例は、「期日の前の夜に論文を書けばいい」、「授業中、注意を払っていたので、テストのために勉強する必要はない」などと考えることです。
より深刻な欠点は、誤った自信は通常、「経験のテスト」に耐えることができないため、自分に対する破壊的な疑いに、いとも簡単に陥ってしまうことです。勉強せずに試験を受け、結果、ひどい点を取った学生は、安直に「この教科には苦手だ」と考えてしまいます。 もちろん、それが本当である可能性もありますが、少なくても2回以上、最善を尽くして試してみてない限り、実際に苦手なのかを知ることはできません。さらに悪いことに、経験から反証された誤った自信は、その生徒が何も得意ではなく、試験や書面上の成績が悪いのは、自分自身の、ある種の本質的な、性格上の欠陥からきているという考えに、逆転してしまう場合です。あなたが、自分は何もできない、または、何も上手になれないと信じるのであれば、私はそれを断固否定します。あなたにも性格上の欠点があるでしょう。私自身、多くの欠点があります。でも、書面や試験はそれを指摘しません。書面や試験の目的がそこにはないからです。
誤った自信が、事実に反したり、考え方の見直しを拒んだり、偽り自分により深く陥ってしまう場合も、同様に悪いことです。たとえば、試験でひどい成績を収めた生徒は、「あの教師は私が嫌いだ」と決めつけたりします。繰り返しになりますが、それが本当である可能性はあります。おそらくあなたは、他人を必要以上にイラつかせる人なのかもしれません。でも、それはより良い説明にはなりえません。この考え方で誤った自信に固執すると、あなたが、実際には才能を持っている可能性があることのへ、経験と学習を妨げてしまいます。これは危険な考え方でさえあります。人々の、経験からの学びを邪魔してしまい、真に良くなることを拒んでしまいます。
それでは、どのような自信を目指すべきでしょうか。真の自信、正しい種類の自信は、あなたが、自己の限界に追いつめられた時、なにかを試された時、自分がどれだけできるかを正確に知ることから始まります。真に最高の自信は、自分の限界を超え、自分が今までにできると思っていた以上の仕事をするために、その挑戦に立ち向かった時に生まれます。この種の自信は、あなたの仕事の領域だけに止まらない傾向があり、それは、人間として自分をより良く見直すような考え方です。
皮肉なことに、この種の自信はしばしば謙虚さから生まれます。謙虚さは自己疑念と同じではありません。自分を疑う人は「私は良くない」と言い、謙虚な人は「自分がどれだけいいかわかりませんが、やってみます」と言います。多くの場合、特定の分野で最高の人は、最も謙虚な人です。彼らはあまりにも多くの事を知っているので、同時に、どれだけ知らないかも知っています。しかし、彼らの「私は知らない」は、彼ら自身を疑うのではなく、もっと学び続けるようと、彼らを促します。
私が自信に焦点を当てる理由は、大学での成功には自信が大切であると思うだけでなく、いくつかの重要な意味で、自信こそが、あなたが大学生活を通して発展させるものだからです。状況は変化します。あなたも変化します。なので、あなたは何が将来に起こるのかを知りえません。私は前学期、卒業生が卒業後の生活を現在の学生に伝える、パネルセッションに参加しました。5人の学生のうち1人だけが、大学で自分が想像していたことを実際に行っていました。これらの比率が典型的であるかどうかはわかりませんが、彼らの経験は多くの人に役立つと思います。あなた方の多くは、おそらくほとんどが、今興味を持っていることに関連している、ないしは、奇妙で予測できない方法であなたに関連している仕事に就くでしょう。大学で選択した分野から始めて、キャリアの途中で分野を変える人もいます。まだ発明されていない分野で働く人もいます。パネルの学生の1人もそうでした。そして、あなたの中には、あなたが私の年齢になるまでには無くなってしまう分野で働こうとしている人もいます。私の分野である英語の教育が、なくなる分野の一つなのかどうか、私にはよくわかりません。
では、ここで何をしているのでしょうか。準備しようとしているものが実際に何なのかわからない場合はどうするのでしょうか。まあ、あなた方の一部は、今準備している道が、または、卒業するまでに準備するであろう道が、あなたがたどる道です。あなたが抱く夢を、たとえそうでなくとも、追求する必要があります。しかしまた、あなたは、非常に特別な種類の自信を築くためにここにいます。パネルに参加した5人の卒業生たち全員が、IWU(イリノイ∙ウェズリアン大学)での教育は、彼らが今していることのために不可欠であったと考えていました。彼らは多くの学びの中で、書くこと、話すこと、グループで働くこと、分析すること、全体像を見ること、学ぶ方法を学ぶこと、リーダーシップを発揮することなどを、重要だと認識したそうです。それらのすべての根底にあるのは、自信です。自信とは、彼らが試され、以前の状況では決してできるとは思わなかったことを成し、ゆえに、彼らはどのような新しい挑戦にも立ち向かえると思えること、です。
大学の、特にイリノイ∙ウェズリアンのような挑戦的な大学の、ひとつの捉え方は、ここが試される場所であり、自分を、限界と思っていたその境界を超えて押し出し、たとえ特定のタスクでその努力が実らなくても、安全な場所であることです。 実際の職場では、リスクを取ってしたことがうまくいかないと、あなたの仕事の喪失に繋がる場合があります。戦場やその他の危険度の高い職業では、命にかかわることさえあります。でも、教室で何かを試してうまくいかない場合、成績が落ちるだけます。それだけです。卒業後、あなたの成績平均点(grade point average)は、おそらく約15分間だけ課題となります。現在、これは通常、非常に重要な15分なので、成績に注意を払わないことはお勧めしません。ただし、自分自身に常に挑戦している人であれば、あなたの全体的な成績は、おそらく良く見えるでしょう。あなたは、知的なリスクを決して負うことのない人よりも、おそらくずっと良く見えるでしょう。
私があなたに提案している主張は、大学にいる間に何をすべきかについて、重要な意味を持っています。あなたが、大学の学位を単なる一資格とみるならば、ないしは、いくつかの過程を経て特定の能力レベルに達したことを証明する一枚の証明書とみるならば、簡単な授業のみを受講するのが安全でしょう。あなたの学位が、ある分野での専門的な訓練を示すだけのものであれば、その分野に限定された授業だけを受講するのが賢明です。しかし、これらはどちらも真実とはいえません。大学教育は資格以上のものであり、時として、自分が本当に何をするために教育を受けているのか確信が持てません。したがって、長期的に見れば、真に賢いのは、自分がやりたいことであれば何でもできるという、自信を育むことです。
できる限り探索してみてください。たとえあなたの思い描くキャリアとは何の関係がなくても、興味深い授業があれば、いくつか受講してみてください。あなたを本当に悩ませる課題を持つ、そして、タフと評判される教授が教鞭する、困難なコースをあえて選択してみてください。海外留学も妙案です。インターンシップを探してみましょう。教室の外で、自分の分野に「関係がある」かどうかに関係なく、興味を持って挑戦できることをしてみましょう。アーガスに記事を投稿し、生徒委員会に立候補し、大学内チームに参加し、芸術活動のオーディションを受け、クラブや政治組織、ボランティア活動等、能力や興味に合ったことは何でもしてみてください。そして、大学生活のあちこちで起きる、友達とする、ばかばかしくも底の深い会話に、心を開き、耳を傾けてください。
これらすべてを行うことができ、あらゆる方法で自分自身に挑戦する場合、あなたは、ここイリノイ∙ウェスリアンでの時間をより豊かで充足させるだけでなく、今後どのような変化が起きようとも、自分の将来に備えることができます。そして、あなたであれば、それができます。自信を持ちましょう。私はあなたを信じます。